【近況】

◎日々のことをすこし書きたいなあという思いがありつつ、なんだかうまく書けないかもしれないなと止まって、行ったり来たりしながら、ブログのデザインを少し整理しています。 [2021/10/28]

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2014年05月03日

ちょい、と上向きになるために

うつ病のこと。
すごい。書いてみるものですね。
読んだいろんな方がいろんなお話を聞かせてくださって、ありがたいです。
私ひとりでは決して知り得ないような、あちこちのお話。

ほんと、ね。
ウイルスが入ったから病気になった、それを追い出せば完治。…というような単純なものではない。一応「病」とついているけれど、その原因は、自分の細かく気付いてしまって放っておけない神経質さとか、気にし過ぎな性格とか、おじょいちゃんが言ってたみたいに「カルマ」なのかもしれないし、ひとえに「これが原因」ってシンプルなものではない。

「自分のこういう性格が厄介なんだよなあ」って思っても、癖とか性格はかんたんには変えられない。私の場合は自分の厄介な性質を、自分自身でまるきり否定しているわけではなかったけれども、それでも、「まあ、うまく付き合っていこ!」って諦めるというか、割り切る、のには時間がかかった。
なんとなく昔の自分と今の自分を比べてしまって、出来なくなってしまっていることや、「昔はもっとこうだったのに」ってことに悔しくなったり悲しくなったりしてた。
けれどでもある日、シャワーを頭から浴びながら、ふっ、と、
「あれ?でも、そうやって自分で今の自分を卑下してどんどんおとしめていっても、自分が損するだけじゃないか?一番自分で好き勝手出来るはずの“自分”って存在が、なんで自分をダメにするようなことを、真っ先に“自分”に押しつけてるんだろう?昔の自分と今の自分を比べて自分同士を天秤にかけて哀しくなって、独り相撲しちゃってる私。なーんだ、ばかみたい。笑」
って、笑えたのだ。
昔の私に出来て、今の私が出来なくなったことはいっぱいある。
これから先も、きっとどんどん増えるだろう。
でも、昔の私が知らなかったことを今の私が知ってることもいっぱいある。
どっちが上かなんて決められることじゃない。し、今の私は、今の私のことを、そんなにほんとに、どうしようもないほど大嫌いなわけじゃない。
というか、私は私のことにどうやって確かな自信を持ったらいいのかわかんないけど、私のことを好きだよって言ってくれる、私が大好きなともだちたちのことを信頼してるから、みんなが好きだっていうその人(私)も、きっと、それなりに、素敵なところがあるはずだ。
…なんていう、これはまあ何度も書いてきていることだけれど、持って回ったような考え方でして、私は私に自信を持っている。まわりくどい思考だなあと自分で思うけど、今のところその思考が、私には一番しっくりきている。
こじらせてんなあ、と自分で思うけど。
でも、こじらせてんのが、私だ。めんどくさいけど。

どうしようもなく鬱屈として、もうこの先の一秒を過ごさなければいけないことも辛くて、希死念慮に苛まれて命を諦めるような選択をするよりは、薬を飲んででも生き延びたほうがいい。

…という思いで、前回のエントリを書いた。
でも、「どうにか生き延びてる」状態で、人間は、「生き続ける」ことは、たぶん、出来ない。
脳と心に生命がある限り、人間はそこに、何かしら価値を持ちたいと思ってしまうのだと思う。
あ、でも、出家した人とかは違うのかな。
煩悩を捨てた人がどういう状態なのか、それはちょっと私にはわからないのだけれど。
まあでも多くの人は、自分が生きている意味とか、価値とか、を、考えてしまうものだろう。

薬でどうにかなってなんとか「生き延びてる」って状態は、私には、「惰性で生きちゃってんな私」って感じだった。
死ぬこと「すら」出来ない自分。って。
でもどうにかなるもんならどうにかしたかった。
その為には、自分が価値を感じられるなにかが必要だな、ということは分かっていた。
でも、なにをどうやっても、どうにもできなかった。
民間療法と呼ばれる様々なことも試した。まだ試してない方法もたくさんあると思うけれど、人に勧められることは出来る限り試した。でもなにもハマらなくて、いやになってしまうこと多々。

「生き延びてる」を「生きてる」にするためには、こじらせてたり面倒だったりする自分をひとかかえにして包括的に、認めて、把握して、その上でいろんな要素の足並みをそろえて、よいしょ、ってちょいと上に持って上げれるやり方を、タイミングを、程度を、とらなきゃいけない。
なんて書くと、小難しいけれども。
かんたんなことだ。
ちょっとした、うそみたいな偶然で、ひょい、とひとつ歩みを進められたりする。

私の場合は、ニードルフェルトだった。
たまたまはじめたニードルフェルトに、まったく何も期待してなかったのに、思いのほか没頭して、そんなに演劇以外の物事に没頭するのは中学の頃までイラストを描いていたそれ以来なんじゃないかってくらい久々で、ひとりでぎゅうっと目の前のことに熱中してものをつくることが、充実していて、楽しくて楽しくてしかたなかった。
それまで何年間も、「何か没頭できるものがひとつでも出来ればいいのに」って思っていろんなことを試そうとしたけど、まるでだめだった。
頭、耳、体、手足、と小さなパーツをひとつひとつ作っていって組み上げると手のひらサイズの動物が出来上がって、自分の好みの表情が作れたりして、そうして可愛らしいものが出来上がるのが嬉しかった。出来上がったものを見てくれた人たちが、喜んでくれたのが嬉しかった。
なにものにもなれないかもしれない私だけど、こんな私でもまだ、誰かに喜んでもらえることが出来るかもしれない、と思うことが、ようやく出来た。
あり余る、外出がおっくうな時間を利用して、この時間のかかる単純作業に没頭しながら、手を動かしながら、いろんな考え事が出来た。自分のことや、当時一緒に生活していた旦那のことや、友人たちのことや、実家の家族のことや、演劇のことや、夕食のメニューや、買い物のタイミングや、家計のやりくりや。

薬を飲むことで、どん底でもなんとか生き延びることの手助けはしてもらえるかもしれない。でも平行直線の毎日が、ちょい、と上向きになるためには、なんかしら、必要だ。

それは、人によってさまざまなんだろう。
ボランティアだったり、ヨガだったり、ペットだったり。
あとで担当医にニードルフェルトをはじめた話をしたとき、「編み物なんかは、いい、って、昔からよく言いますね」と言われた。苦にならずいつでもやめられる単純作業で、その繰り返しがしかし最終的にはなにかしら形あるものとして完成、達成される。達成感を味わえる体験が、重要なのだと言う。
ニードルフェルトの作業はまさにそうで、まんまと、私は、いいものに出逢ったなあと思う。

ニードルフェルトのなにがいいって、
・原価が安い
・道具は基本的にひとつ(専用のニードル針、1本100円くらい)
・必要な動作は基本的にひとつ(とにかく刺す)
・他にやってる人がまだあまり居ない→劣等感とか追いつけないゴールを感じずマイペースに楽しめる
ってことだ。
どの点も私にとってはありがたかったし、楽しみながら続けられた理由。

こういうのが、なんか、ね、どこで見つかるかわかんないから。

そして少しずつ、薬に助けられている部分を、シフトしていけたら。いいなあ。

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写真は、友だちがくれた誕生日プレゼント。ぜんぜんよくわからない組み合わせのチョイスなのだが、それもその人らしくて笑えて、嬉しかったのです。
赤いホーロー製のコップは、ワイルドストロベリーの栽培キットで、こういうの一回もちゃんと最後実がなるまで育てれたことのない私は、すでになんだか申し訳ない気持ちになりつつそわそわしつつ、種うえをしてみました。

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芽が出るといいなあ。

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posted by たなか沙織 at 13:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 病気のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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